私は宮崎県出身で高校3年生の時、大学受験で関西に出てきました。高校時代から演劇部に所属していたので、大学でも演劇を続け、いずれは役者になりたいという思いがありました。同志社小劇場との出会いは、たまたま書店で手に取った雑誌。とにかく何か演劇活動がしたくて情報収集していた時、雑誌で新歓公演の情報を見つけました。脚本や演出も学生が行っていることを知り、ここなら自分の好きなように演劇ができると考えたのが、入団を決めた大きなきっかけでした。その後、現在も所属しているヨーロッパ企画という劇団を、小劇場で出会った仲間と一緒に立ち上げました。
入学前の3月には奈良に住むことが決まっていて、いざ引っ越し当日、交通事故に遭ってしまったんです。主治医に何とか頼み込んで入学式は車椅子で出席したものの、2カ月の入院を余儀なくされ、学生生活はさんざんな幕開けでした。退院して大学に行き始めた頃には周囲の友達づくりも終わっていて、出鼻を挫かれた思いで辛かったですね。今では話のネタにしてますが(笑)。
浪人時代から小劇場の演劇を観に行っていて、先輩方に「頑張って合格し、同志社小劇場に入団します!」と宣言していたのですが、先の事故があったため、初参加は10月の公演でした。その時も足は完治しておらず、逃げるシーンでは本当に足が動かなくて引きずりながら逃げていましたね(笑)。 当時、私は人見知りが激しく、舞台稽古後に集まる皆の輪に入れずに、そそくさと帰っていました。2年次生になると、演劇について質問してくれる後輩が現れました。後のヨーロッパ企画のメンバーとなる上田、石田、本多といった後輩たちです。同じ頃、1年先輩で幽霊部員だった諏訪が、「上田の脚本で、永野と芝居をしたい」と誘ってくれて、諏訪、上田、私の3人で同志社EVEに芝居をすることに。今考えるとあれがヨーロッパ企画の旗揚げだったと思います(Doshisha Episode参照)。