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INTERVIEW 新島八重から受け継いだ“ハンサムウーマン”の系譜

新島八重の精神を受け継ぎ、しなやかにたくましく生きる「ハンサムウーマン」たちの姿を追ったインタビュー。

フェンシング部OB 池端花奈恵さん KANAE IKEHATA 商学部商学科 2005年卒

Profile

小学1年から2人の姉とともにフェンシングを始め、大学では主将を務めた。卒業後、京都府庁に入庁。2009年、京都府立乙訓高等学校に保健体育教諭として赴任し、新設されたフェンシング部の顧問も務める。働きながら選手としての活動を続け、2010年には休職して東京に拠点を移す。2012年、ロンドンオリンピックに出場し、女子フルーレ個人(8位)及び団体(7位)で入賞を果たした。帰国後、復職。

INTERVIEW 02 ひたすら果敢に挑戦し続ける。フェンシングも、人生も

競技を始めたきっかけは何ですか?

フェンシングに出会ったのは小学1年の時です。通っていたスイミングスクールの横でフェンシング教室をやっていて、たまたま覗いた時に楽しそうだったので2人の姉とともに入会しました。とにかく向上心の強い3姉妹で、今に至るまで良きライバル。姉たちには相当鍛えてもらいましたし、互いに競い合って成長してきたように思います。

フェンシング部OB 池端花奈恵さん

ロンドンオリンピック出場に至った経緯を教えてください。

競技を始めた当初からオリンピックを意識していたのですが、現実味を帯びてきたのは大学4年の頃。初めて参加した世界選手権で海外の選手を目の当たりにして、目が世界に向いたんです。しかし2008年の北京ではあと一歩で出場を逃し、挫折を味わうことに。結果を出せなかったために競技を続ける環境も整わず、道が途絶えたかのように思われて落ち込みました。でも、ここで自分を終わらせたくないという気持ちが強かったのと、周りの人にも背中を押してもらって。貯金を切り崩してなんとか選手生活を続けました。

転機になったのは2010年。以前から素晴らしい指導者だと感じていたイタリアのコーチが来日すると聞き、この人に懸けようと思ったんです。覚悟を決めて勤めていた高校を休職し、東京に活動拠点を移しました。コーチはかなり厳しい人で、とにかく練習がシビア。「練習でも一本たりとも気を抜くな、その一本が命とりになる」と言われ、精根尽き果てる毎日でした。でも世界で通用する選手になれたのは、これが最後かもしれないという覚悟と、ハードな練習に耐え抜いた日々があったからだと思います。

フェンシング部OB 池端花奈恵さん

8位入賞という結果を、どう受け止められていますか?

私を含め、日本人2人が個人で入賞したのは世界のフェンサーからすると驚きだったと思うんです。でも、行くと決まった時にはすでに目はメダル獲得に向いていて、全力で獲りにいったので本当に悔しかった。五輪の厳しさを痛感したというか、対戦相手たちは大会でしょっちゅう会う顔馴染ばかりなんですけど、やっぱり普段と気迫が全然違いましたから。ただ、ずっと勝てなかった、尊敬していた選手に勝てたのは嬉しかったですね。やってきたことは間違いじゃなかったんだと。それに対して大きな満足感はありました。

ちなみに試合後は、チームメイトとしっかりロンドンを観光しました。楽しかったですよ!もともと街自体が素敵なんですけど、オリンピックの雰囲気を身にまとったロンドン、世界中の人を歓迎するムードになっているロンドンがまた魅力的なんです。特にノッティングヒルは、女子にはたまらないですよ。まあ、そこに女子アスリートで行ったわけですけど(笑)。

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